日本に残された最後の秘境。それがゼニス。
ゲストに「ゼニスがすごい」そういうとほぼ100%の確率で返ってくる言葉。
「どこの国?」
それほど聞き慣れず、どこか異国を思わせる響きだ。
しかし、ゼニスはれっきとした日本の海。
漢字では「銭洲」と書く。
魚がわんさか釣れ、銭になる場所。
そこから銭洲と呼ばれるようになったといわれている。
釣り人の間では、古くから知られた大物の聖地。
腕に覚えのある大物師たちが最後に行き着く、まさに最後の砦。
そしてそれは、ダイバーにとっても同じ。
長いダイビングキャリアの果てに、ついに僕はこの海へたどり着いた。
ゼニス。
今回は、僕が実際にゼニスを訪れたときの記録をたどりながら、いまだ計り知れないこの海のポテンシャルを伝えていこうと思う。
限られた者だけがたどり着ける海

銭洲(ゼニス)は、伊豆半島の先端・石廊崎から南へ約70kmの海上に位置する岩礁帯。住所は存在しないが、東京都神津島村銭洲となる。
距離だけを見れば、海外や沖縄と比べはるかに近い。しかし、その距離とは裏腹に、アクセスは極めて困難だ。銭洲への遠征許可を持つ漁船を利用する以外、たどり着く方法はほとんどない。
僕が知る限り、銭洲へ向かうことができる船は、沼津の舵丸、土肥のとびしま丸、下田の忠兵衛丸と龍正丸、須崎の宝栄丸くらいだ。
しかも、これらはすべて釣り船。釣りを目的とした遠征ですら限られた船でしか行けない場所へ、ダイビングを目的として向かうとなれば、そのハードルは一気に跳ね上がる。
船の確保、メンバー、海況、タンクの積載、そして何より、船宿との信頼関係。ただ予約を入れれば行けるような海ではない。
結論から言えば、コネクションがなければ潜ることは叶わない。まさに、幻のダイビングポイント。それが銭洲だ。
今回は、そんな銭洲を一日の遠征記とともに紹介していこう。
読み終えた頃には、あなたの人生で潜るべき海の頂点が、きっと銭洲になっている。
銭洲(ゼニス)に向けていざ出港
2026年7月某日、深夜。僕らは土肥漁港に集結した。
今年も、ゼニス戦の開幕。今年で5回目となる挑戦だ。
どんな海が待っているのか。
楽しみが3割、不安が7割。
期待よりも恐怖が勝る、そんな気持ちを抱えたまま夜の漁港は静かに僕らを迎えてくれた。
不安の理由はひとつ。
黒潮が、ゼニスを直撃していた。
過去のゼニスでは、幸か不幸か潮は緩く、「ゼニスは激流」という悪名も噂の域を出なかった。
しかし今回は違う。
潮流図を見ると、黒潮は完全にゼニスへかかっている。
多くの人は黒潮の真ん中が最も速いと思っているが、実際に潮流が最も強くなるのは潮の境目で、その境目がちょうどゼニスをかすめていた。
嫌な予感しかしない。
さっきまで吹いていた強風により、5時間に及ぶ航海は決して穏やかなものではなさそうだ。
出港前、緊張を紛らわせながら仲間と束の間の時間を過ごす。気分は、まるで戦場へ向かう兵士のよう。
そんな僕とは対照的に、不安な様子も見せずゼニスへの期待だけを宿したギラギラとしたゲストの眼差しが暗闇の中、光っていた。
ちょうど日付が変わった頃に、乗り合わせる仲間のショップや船長たちが次々にやってきた。中乗りから走行中の注意事項や船の扱いについての説明を受ける。

「夜中の海で落ちても誰も気づきませんから、気をつけて」
その言葉には慰めも励ましもない。
あるのはすべて自己責任であるという事実だけ。

船に乗ったら各自ベッドに入り早々に就寝とした。
銭洲(ゼニス)に着いた
途中エンジントラブルで船が2時間も止まっていたようで、ゼニスに着いたのはすでに8時を回っていた。7時間もの航海だったようだが、おかげでぐっすり眠ることができ体調も整った。

これがネープルスと呼ばれる岩礁だ。
ゼニスにはこのネープルスとヒラッタイ、大ダルマ、小ダルマの4つの露出岩がある。ゼニスのダイビングでは流れを避けることができるネープルスで潜るのが定石だ。
船長「潮は速えぇな〜」
やはりその言葉に余計な励ましはなく、ただ現実を受け入れるしかなかった。大根の際をゴンゴンと流れが沖へ払い出しているのがわかる。目測3ノット程度ありそうだ。
揺れる船上でいつもより慎重に、抜かりのないセッティングをし、ウェットスーツに着替える。参加者全員の口数は少なく皆淡々と作業を進めていた。
今回のチーム編成は5ショップでの乗り合い。全員顔の知れたメンバーで、特にドリフトや流れが好きなクレイジーな顔ぶれだ。
その中で総監督を務めるのがIWASI DIVERSの小松師匠だ。小松さんはこれまで数々の秘境と呼ばれるダイビングエリアの開拓に尽力し、今なおマニアックなこの道のドンとして君臨している頼もしい存在だ。優しい表情から想像できないほど、内に燃やす炎の温度は高い。

普段は穏やかな小松さんの表情が、いつになく厳しい視線になり、ブリーフィングが始まる。一同に緊張感が走る。
一人でも身勝手な行動や、スキルが足りなければダイビングは中断せざるを得ないのがゼニスのダイビング。通常のダイビングでは使うことのない、ダウン・アップのハンドシグナル、リコール手順、ダウンカレントへの対処法を叩き込む。
ゼニスでは、一瞬の判断の遅れが命取りになる。
刻一刻と変化する海況の中で、コンタクトを瞬時に取り、その意図を理解し、迷わず行動へ移す。そんな高度なチームワークとスキルが求められる。
いざ、エントリー

全員器材を装着し、船縁にスタンバイ。流れをかわせるよう、船長は船を大根のギリギリまで寄せる。
船長からのアナウンスがある。
「3、2、1、ハイ」
岩礁への衝突を避けるため、船長はエントリーと同時にエンジンを回し船を前へ逃がさなければならない。そのため全員が同時にエントリーすることが必須条件となる。また、ペラへの接触は絶対に避けなければならないので、エントリー後の即潜降の能力が必要になる。
ダイビングボートとは比べものにならない高さのある漁船の船縁からバックロール。そのまま体を拗らせ後方のダンクバルブを引きながらのヘッドファースト潜降をする。全員が水中で合流するというエキスパートエントリーを行う。
エントリー後は各チームリーダーとコンタクトをとり、ダイビング開始。漂流事故を防ぐために、ゼニスでのダイビングは乗船している全員が1チームで移動する。
ドリフト開始時はフロートを打ち上げ、船がチームを常に追尾し続ける。最も教科書的で安全な方法を採用している。
大根裏は潮をかわしているので流れもなく、落ち着いてダイビングがスタートできた。しかし水面や根の表は流れているのが分かる。根の影に沿って徐々に沖へと出していく。
早速、メジロザメ、おそらくクロトガリザメが周囲を悠々と泳ぎ、僕らを歓迎するかのように姿を現す。ハンマーヘッドシャークも単体でちらほら。
だが、これはまだ序章だった。
慎重に潮を見極めながら、潮の境目へ近づいた、その時だった。
海底の暗闇から、白く四角い口を半開きにした巨大な影が、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
その特徴的な口の形で瞬時に分かった。

出た。タイガーシャークだ。
その巨体は、まっすぐサンライズのゲストへ向かってくる。僕はすぐにタンクを叩き、全員へ知らせる。
タイガーは襲いに来たのではなく侵入者が何者なのかを確かめに来たようだった。ほとんど人が潜ることのないこの海では、ダイバーという存在そのものが珍しいのだろう。
ゲストとタイガー。
互いの視線が交差する。
数秒。
いや、水中では永遠にも感じられる時間が流れる。
そしてタイガーは、僕らを一瞥すると、悠然と暗い海底へと姿を消していった。

その瞳に敵意は感じられなかった。むしろ、この海の主として侵入者を静かに見定めるような、どこか穏やかな眼差しだった。
タイガーに気を取られている間に、僕らはいつの間にか激流へ近づいていた。
すぐにリコールをかけ、一度岩陰へ退避する。潮影で呼吸を整える。
そして、いよいよゼニス本番。激流へ身を委ねるドリフトダイビングが始まった。

ここからが、ゼニスの正念場。
潮の中へ入った瞬間、待っていたかのようにダウンカレントが襲いかかる。泡が巻き上がり、視界は一気に白く濁る。

ロストだけは絶対に許されない。
ゲスト一人ひとりの位置を確認しながら呼び集め、互いに手が届く距離を保ったまま、激流の中をドリフトしていく。
そんな極限状態の中でも、次から次へとサメが姿を現す。まさにゼニスらしい光景だ。
途中、23m付近で強烈なダウンカレントに捕まり、思うように浮上できなくなる。落ち着いて姿勢を変え、流れをかわしながら、何とかダウンを抜け出すことができた。

この時の僕は、サメを見る余裕などまったくなかった。頭の中は、ダウンカレントへの対処と、ゲスト全員を無事に連れて帰ることだけ。
あとで聞けば、その最中にもタイガーシャークが姿を現していたという。だが、その時の僕には、それを見る余裕すらなかった。
安全停止中でさえ、気は抜けない。クロトガリザメは終始、僕らの真下をゆっくりと旋回していた。
獲物として見ているのか。それとも、ただ珍しい侵入者に興味を示しているだけなのか。真意は彼らにしか分からない。
そんな中、メンバーの一人が冗談半分にサメを手招きするような仕草をした。
その瞬間だった。クロトガリザメは明らかに態度を変え、こちらへ威嚇するような動きを見せた。その様子は動画にも残っているので、ぜひ実際の映像を見ていただきたい。
相手は、人間の管理が及ばない野生の捕食者。
こちらに敵意がなくても、不用意な刺激は決して許されない。

無事にエキジットした瞬間、ようやく緊張が解ける。全員が安全に浮上できたことに、心の底から安堵した。
このあとも2本のダイビングをネープルスで行った。
内容まで語ってしまうと、これからゼニスを目指す人たちの楽しみを奪ってしまう。
だから、その先はあえて伏せておこう。
今回の遠征で出会えたのは、
- タイガーシャーク 4回
- ハンマーヘッドシャークの群れ 1回
- クロトガリザメは終始、僕らの旅の同行者
さらに、カツオの群れ、カマスサワラ、ツムブリなど、外洋ならではの魚たちが次々と姿を現した。
ゼニス。
そこは、ダイバーが最後に憧れる理由が確かに存在する海だった。
戦場からの帰還
一行は無事に3本のダイビングを終え、安堵の気持ちで帰路につく。
船上では、ダイビングの合間に釣り上げた魚を捌き、即席の海鮮丼を作る。

ゼニスで釣れる高級魚・ウメイロ。白身でありながら脂が乗り、甘みがある。滅多に市場に出回ることのない高級魚が入れ食いだ。

さっきまで海の中を泳いでいた魚をその場でいただく。
身は少し硬いが、その歯ごたえにみなぎる生命力が伝わってくる。この海を生還できた喜びも相まって格別の味わいだ。
現代では忘れられつつある、とても原始的な遊び方。
ダイビングが日本へ伝わった黎明期。
先人たちは、こうして未知の海へ挑み、魚を釣り、仲間と語り合いながら海を楽しんでいたのではないだろうか。
そこには便利なサービスも、整えられた環境もない。
あるのは、自分の技術と仲間への信頼、そして自然への敬意だけ。
ゼニスを潜って思い出した。
本当のダイビングとは何か。
商業化され、便利になった現代のダイビングでは得難い、自立する力、状況を判断する力、そして未知へ挑む勇気。
銭洲には、それらすべてが残されていた。
だからこそ、僕はこの海を「日本最後の秘境」と呼びたい。






コメント